感じたこと、入ってきたことつらつらと。
感覚のまま書きます。
「思っている」は「思わされている」
例えば、なんで私たち大人は、
子どもに対して
「◯◯にチャレンジしてほしい」
とか
「辞めるなんて勿体ない」
とかって思うんでしょう。
それは、子どもたちはまだ社会の”普通”や”常識”という、
本当はそんなものないのにあるように感じさせられてるものに染まっておらず、
自分の無限の可能性を当たり前に知っている
からだと思います。
だから好奇心のまま、やりたいことにどんどんチャレンジする。
恐れを知らず楽しんでチャレンジする姿に思わずワクワクするし、
失敗しても何度でもチャレンジする姿に思わず応援したくなる。
「ワクワクさせられている」
「応援したい気持ちにさせられている」
「思わされている」んです。
(逆に、そういう子どもの姿を見て、
「どうせ頑張っても無駄だ」
とか
「お前にはこれは向いていないからやめたほうがいい」
などと思う人もいると思います。
それは子どもに対してではなく、自分の可能性を自分が信じられていないからだと思います。
その人の過去に、そういう考えに至る体験や背景があるんだとは思うので批難するわけではないけど子どもにそういう価値観を押し付けるのは私は好きじゃない。)
こんな風に、
自分が「思っている」とか「自ら行動している」「選択している」と思いきや
実は「思わされている」、「行動させられている」、「選択させられている」ことって、たくさんあると思います。
宇宙の視点で見たら、全てそうなんじゃないかなと思います。
花や空に「綺麗だな」と思わされて、「眺め」させられている。
魅力的な人に「好きだな」「仲良くなりたいな」と思わされて、「話しかけ」させられている。
自分以外の何かの存在(物体でも、出来事でも、人物でも)があるから、
感情が生まれ、行動や選択をさせられている。
能動的かと思いきや、受動的。
そんな風に考えたら、余計な恐怖は減るんじゃないかなと思います。
恐怖が悪いということではないけど、過度な恐怖心は自らを苦しめるから。
過去世含め過去の体験から自分の思考の”クセ”になっていることってあって、
それによって生み出される恐怖は幻想なんですよね。
怖いって思い込んでるだけ。
たくさん背負って頑張って生きてきた分だけ、その思い込みを払拭するのは結構エネルギーがいるんですが、
その重荷は降ろして全く問題ないんですね。
過去は過去。
「あのときこうだったから今回もそうなんじゃないか・・・」の恐怖はいらないよ。
同じこと繰り返したくないなら、今から新しい選択をすればいい。
また一つ、幻想の恐怖を手放せそうです^^